Text|宮畑周平(瀬戸内編集デザイン研究所)
2011年、今治市大三島に「今治市伊東豊雄建築ミュージアム」と「今治市岩田健母と子のミュージアム」が建ってから、大三島と建築家・伊東豊雄さんとの関係は年々深まっている。伊東さんといえば、建築界のノーベル賞とも言われる「プリツカー建築賞」を2013年に受賞し、他にも王立英国建築家協会ゴールドメダルなどの国際的な賞を受賞するなど、世界的に活躍している建築家だ。そんな伊東さんが、瀬戸内海の島、今治市大三島で、建築家人生45年の集大成ともいうべき新しい挑戦をスタートさせ、徐々にうねりを生み出そうとしている。
建築家・伊東豊雄さん。(撮影:山道雄太)
伊東豊雄さんは1941年生まれ。長野県諏訪湖のほとりで、自然の中を裸足で走り回って育った。東京大学工学部建築学科を卒業後、建築家菊竹清訓氏のもとで建築設計者として出発し、ほどなくして独立。決して順風満帆な道のりではなかったが、住宅では〈中野本町の家〉や自邸〈シルバーハット〉、公共建築では〈せんだいメディアテーク〉や〈みんなの森 ぎふメディアコスモス〉、〈台中国家歌劇院〉などの設計を通して、一貫して社会と建築との関係、社会の中での建築家のあり方を考え続け、実践している建築家だ。
せんだいメディアテーク ©宮城県観光課
みんなの森 ぎふメディアコスモス ©中村絵
台中国家歌劇院(写真提供:伊東豊雄建築設計事務所)
11月、東京・神宮前にある伊東さんの設計事務所を訪ねた。晩秋の東京は強い日差しのせいか、あるいは著者が住んでいる自然豊かな島と比較してなのか、街の色彩は少し褪せているように思えた。設計事務所の白いビルに入り、伊東さんが手がけた建築作品の模型やコルビュジエのモデュロール人形などが飾られている明るい4階の会議スペースで待っていると、柔らかな表情をたたえ、印象的な白い眼鏡をかけた伊東さんが部屋に入ってきた。
伊東さんが大三島と出会ったのは2007年のこと。篤志家の所敦夫さん(故人)に声をかけられたのがきっかけだった。所さんは大三島に「ところミュージアム大三島」(2004年開館)という、自身の所蔵する現代美術作品のための美術館を建て今治市に寄贈していて、その近隣に別館を建てて同じように市に寄贈する構想を持っていた。伊東さんは共通の知人を通して、その別館の設計者として白羽の矢を立てられ、協力することになったのだった。伊東さんはその時初めて大三島に触れたが、当時の感覚を伊東さんはこう語る。
「私と所さんは、広島県の忠海港から船で大三島に向かったのです。所さんは船が好きでね。瀬戸内の海面は驚くほど穏やかで、海の上から見た大三島、それは美しかったですね。夕方の海の色も素晴らしかったし、ところミュージアムの周りは一面のミカン畑でね。そんな都会にはない色彩にも惹かれましたね。」
今治市伊東豊雄建築ミュージアム、夕景。(撮影:宮畑周平)
大三島という島自体にも大きな魅力を感じたという。「逆説的になりますが、何もないところが魅力ですね。大きな開発がない、大きな企業もない。また、中心がないのも魅力だと思いました。大山祇神社はありますが、そこが島の中心というわけではなさそうだ。その代わりに島じゅうに集落が点在していて、それぞれに個性があります。それが非常に美しいと感じました。一方で、かつて賑わっていた神社参道がさびれてしまっているのは何とかしたいと思いましたね。」
参道には、観光客の姿はほとんどない。(撮影:宮畑周平)
美術館の設計に取り掛かっていた伊東さんだったが、大三島町と今治市の合併のために、プロジェクトは一時中断。その間、伊東さんが所さんに、これからの若い建築家を育てたいという夢を語ったところ、「それならこの新しいミュージアムを使ってやったらどうか」ということに発展した。そのことが今治市議会でも認められ、正式に今治市立の「今治市伊東豊雄建築ミュージアム(TIMA)」が開館。また、所さんに語った夢も私塾「伊東建築塾」としてひとまず東京を拠点に始動した。同時期に「今治市岩田健母と子のミュージアム」も伊東さんの設計により大三島の宗方地区に竣工。2011年のことだった。
今治市岩田健母と子のミュージアム。2011年、今治市伊東豊雄建築ミュージアムと同時期に竣工した。(撮影:宮畑周平)
2011年は、伊東さんにとって大きな意味をもつ年となった。大三島にふたつのミュージアムが完成し、念願だった建築塾も開講するという充実の一方で、3月11日、東日本大震災が発生したのだ。即座に伊東さんはこの未曾有の大災害に建築家として何ができるのかを試みはじめた。親交のある数名の著名な建築家と「帰心の会」を結成し、実際に若い建築家たちや建築塾の塾生たちと被災地に赴いて、ボランティアで被災者や被災自治体に対してまちづくりに関するさまざまな提案を行った。そうして結実したのが「みんなの家」というシリーズである。伊東さんは語る。
撮影:山道雄太
「家を失い、無味乾燥な仮設住宅に住んでいる方々と出会いました。はじめは『お前たちに何がわかるんだ』と拒絶されました。しかし現地に通って対話を重ねていくと、次第に素直に口を開いてくれるようになりました。対話の中で、仮設住宅に必要なのは、みんなが集い自然にくつろぎながら関わり合える共有空間だとわかりました。仮設住宅はワンルームマンションのようなプレハブが整然と並んでいて、管理はしやすいのです。が、住まい手にとっては隣近所とのコミュニケーションが非常に取りづらい。集会所も設置されていますが、会議室のようでとてもリラックスして話せたり集えたりするところではないんですね。実際に仮設住宅暮らしは非常にストレスが溜まります。」
伊東さんたちは被災した仙台市宮城野区の住民とワークショップを重ねて、意思を通じさせていく。長年続く建築事業「くまもとアートポリス」で縁のあった熊本県の寄付金や材木援助などのお陰で、「みんなの家」第1号が2011年10月、宮城野区の仮設住宅団地の一角に建った。その後、「みんなの家」は東北に16軒、そして2016年に起こった熊本地震では100軒近くが実現することとなった。伊東さんはしかし、「まちづくりのためのさまざまな提案をしながら、私たちにできたことはみんなの家を建てることだけでした。海と陸を分断する巨大な防潮堤や、かさ上げされた人工地につくられた、地域の歴史の文脈を無視したような新たな住宅地造成などは止めることができなかったんです」と語る。
宮城野区みんなの家。住民によって植えられた花壇(写真提供:伊東豊雄建築設計事務所)
陸前高田みんなの家 ©畠山直哉
現実の厳しさをまざまざと見せつけられた伊東さんだったが、伊東建築塾と大三島で、新しい試みが花開こうとしていた。大三島では毎年のように伊東建築塾のワークショップが行われ、2014年には塾生たちの情熱に突き動かされるように「大三島みんなの家」がオープンしている〈詳しくはこちら〉。また新しい産業になりうるワイナリーの試み〈詳しくはこちら〉も始まった。そのほか、閉校した小学校を利用した宿泊施設「大三島ふるさと憩の家」の改修や、オーベルジュの計画など、2017年現在では11のプロジェクトが進行している。建築家として、伊東さんが大三島でこのような活動をする意味はなんだろうか。
大山祇神社参道を歩く小学生。素朴な光景にほっとする。(撮影:宮畑周平)
「伊東建築塾は、これからの建築家を育てる趣旨で始めた活動ですが、その背景には、社会に寄り添った建築教育をしたいということがあります。大学で建築教育を受けた建築家は、社会の外側から考えた頭でっかちな建築をつくる傾向がある。しかし東北で学んだことは、建築家がその社会の一員として中に入り、頭だけでなく手を動かし、社会の中でどれだけコミュニケーションを重ねられるかが大切だということなのです。幸い、若い人たちは理屈ではなく身体的に大三島に魅力を感じていて、積極的に島の人たちと関わろうとしています。実際に島に移住した建築塾出身者もいます。私自身は、大きく大三島を変えようなんて思っていなくて、ただの触媒のような活動をしていきたい──若い人がここにいたいなと思える場所づくりなどしかできないのですが(笑)。」
大三島みんなの家。以前に法務局として使われていた空き家をリノベーションし、みんなが集えて賑わえる場所を生み出した。(撮影:宮畑周平)
実際に「大三島みんなの家」は物件を借りることになってからカフェとしてオープンするまでに2年間、少しずつ少しずつ、地元の人たちと話し合いながら、試行錯誤しながらつくってきた。塾生も地元の人もまったくのボランティアだ。それは亀のような歩みに見えるが着実で、その道のりは伊東さんの目指す新しい建築像とはっきりと重なる。都会の若者と島が関わり合うことで、次の世代が描く建築や賑わいづくりの作法が見えようとしているのかもしれない。
最後に、伊東さんが大きく影響を受けたという大建築家ル・コルビュジエと自身を重ね合わせて、こう教えてくれた。「コルビュジエは晩年、南仏の小さな村の湖畔に小さな小屋を建てて暮らしました。私も時期がきたら大三島の海辺に小さな住まいを建てて、ワイフや犬と海を見てゆっくり過ごしたいと思っています。」
伊東豊雄さん近影。後ろにあるのは伊東さんが大きな影響を受けたというフランスの建築家、ル・コルビュジエの提唱した「モデュール」という概念を表す人形。(撮影:宮畑周平)
[参考文献]
『あの日からの建築』伊東豊雄著|2012年|集英社新書
『日本語の建築』伊東豊雄著|2016年|PHP新書